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弾正橋に憑かれ、歩く

1月2日のこと。
なんともない初詣散歩のつもりだったのだ。

ここ最近の散歩初めは深川富岡八幡を詣でた後、南下して佃島の住吉神社を経由、興がのれば築地,新橋を越えて愛宕山の愛宕神社までという道のり。しかし、昨年末佃島に行たばかりだし、開いていれば銀座の伊東屋で買い物がしたかったから、三社巡るのはやめにし、首都高深川線下を歩き、徒歩で渡ったことのなかった隅田川大橋を渡り、八丁堀に出たら鍛冶橋通りを京橋まで行き、あとは下って銀座。ってルートをあらかじめ決めていた。

Htm_brg_2詣で客の混雑を避け、早め10:32に門前仲町駅に。直ぐに八幡様に手を合わせて、毎年行く中華そば屋に向かうも、早すぎて開いていない。準備中のスタッフさんに訊いたら開店は11:30だという。幾度か来てい、ちょっとは知ったつもりになっている八幡宮周辺を巡り時間をつぶすことにした。
人道橋があったはず。あらためて写真に撮っておこうとと思った。

Tokyoshi_hi朱色鮮やかな橋が人道橋の八幡橋。八幡掘遊歩道に架かる八幡様の横参道的位置にある橋だ。
「東京市」名義の解説碑があった(つまりは碑自体が貴重価値のある古さ)。
この橋は1878(明治11)年、日本製の鉄を使用して造られた初めての鉄橋で、国の重要文化財である。しかも米国人 Squire Whipple氏の特許に基づく形状であることから、
国内初、米国土木学会の「栄誉賞」を送られたものだとのこと。
江東区教育委員会の詳細な解説板もあった。
この橋はもともとは京橋区(中央区)の楓川にかけられていた弾正橋を移動したもの。製造は上記のとおり1878年だが、1913(大正2)年の市区改正により新しい弾正橋が架けられ、元弾正橋と改称された後、関東大震災後の帝都復興計画の折廃橋となり、1929(昭和4)年にこの地に移されたとあった。
この時、まだ全然気づいていなかった。この日定めたルートに現弾正橋が含まれていることを。

Danjyo_brg僕は予定していたルートを歩いて、鍛冶橋通りに入り京橋に向かった。で、首都高環状線が頭上を塞いだとき、そこが弾正橋だった。楓川はここに流れていたのだ。

ご丁寧に(散歩にオチを付けるがごとく)ここにも解説板があった。
江戸寛永(1624~43)年間にすでに楓川上に弾正橋は架橋されていた。弾正橋は当時交差していた堀川上の真福寺橋・白魚橋とともに“コ”の字を形成しており、江戸名所図会に「三ツ橋」として残るほどの名所であったとある。
帰宅してから調べたら、楓川は「もみじかわ」と読み、日本橋川の兜町付近(現在の江戸橋ジャンクション付近)から分流し、京橋川・桜川合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)に至る堀であったとのこと。現在は首都高速道路都心環状線にその姿を変えている。
また、桜川はこの楓川・京橋川と亀島川を連絡する水路/堀であり現在は鍛冶橋通りの一部。八丁堀とは、八丁の長さを有する桜川の別名だ。白魚橋から外堀までが京橋川だ。

Mmjl_prk斯様に、失われた河川・堀そして橋が、この東京の地に潜んでいる。まるで地霊のように。

この日、僕は弾正橋の「楓川を見たい」という想いを背に歩いたのかな? なんて思う。
楓川はなくなって、車の流れる道路になっちゃっていたよ。何かが流れ行くのが川ならば、そう、これも川と云えなくなくもないけれど。

門前仲町→[首都高深川線]→(港橋)→八丁堀→京橋→銀座一丁目

10951歩。

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